朝井まかて「阿蘭陀西鶴」
西鶴を盲目の娘の視点から描く時代小説。評伝であり、父娘の物語でもある。俳諧師として名を成しながら、やがて草子作者に転じる。市井の人々の抱える物語に興味を持ち、あふれる様に作品を生み出した西鶴の人柄が伝わってくる。「大衆小説」の誕生を描いた作品と言えるかもしれない。舞台は大阪。庶民の生き生きとした描写に、江戸の時代小説とは違う柔らかい雰囲気が漂う。
読んだ本の記録。
石牟礼道子「苦海浄土」 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
「苦海浄土―わが水俣病」に第2部「神々の村」、第3部「天の魚」をまとめた世界文学全集版。どのページを開いても胸が苦しくなるような言葉が綴られ、あまりの密度の濃さに読み進めるのにかなり苦労した。
よく知られた第1部では失われた世界、前近代の残光のような幸福感を描いていて、逆説的な人間賛歌でもあったが、第2部からは患者組織が分裂、訴訟に至り、水俣市民に憎まれ、国民から厄介者とされていく過程が生々しく描かれている。
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直接には描かれていないが、震災と原発事故を強く意識した小説。“素晴らしいふるさと”への同調圧力、集団意識の恐ろしさや、「絆」を声高に語ることのの醜悪さというテーマや問題意識には強く共感するけど、正直、このテーマは寓話として書くには適していないのではないか。現実の居心地の悪さの方が、ずっと複雑で、ずっと暗い。震災の前後、福島で暮らしていた自分には素直に物語に入ることができなかった。
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黒川博行「蒼煌」
日本芸術院の新会員選挙を巡る熾烈な買収合戦を描く。現会員が新会員を選ぶという仕組みから絶対的な上下関係が生まれ、画家と画商、政治家の思惑が入り乱れ、億を超える金が動く。物語としては特段面白いものではないが、描かれている世界があまりに衝撃的で引き込まれる。
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石牟礼道子「十六夜橋」
不知火海のほとりに生きる土建業の一族を描いた小説だが、物語ではなく、土地の記憶のようなものを書いている。石牟礼道子の自伝的作品の一つと言え、この作では志乃として登場する盲目の狂女、祖母おもかさまの見ていた世界をどうにか捉えようとする試みに思える。
文章の視点が定まらないことに由来するのかもしれないが、読んでいるうちに作者の存在が消え、ただそこに人々が存在しているような錯覚に陥る。
『苦海浄土』について自らが述べたように、この作品も著者にとって「自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」なのかもしれない。ただ生きる人々の営みがどんな神話よりも豊かな広がりと存在感を持って迫ってくる。
中上健次の作品を連想するが、中上よりも作者の作為が感じられない。中上作品に出会ったのと同じ高校生くらいの時に読んでみたかった。
安部公房、ドナルド・キーン「反劇的人間」
安部公房とドナルド・キーンの対談。40年近く前の対談だが、「日本人論」の流行に疑問を呈するところから始まり、古さは感じない。あまりまとまりのない内容だけど、所々に非常に鋭いやりとりがある。
安部の「人間の個性というものを信じない」という言葉や、特殊から普遍に至るという小説手法への疑問、『ゴドーを待ちながら』を例に挙げて物語よりも「時間」の存在を示されることが人間にとって一番心に響くという指摘など、なるほどと思わされた。
文学論では、安部が人物造形などから川端康成の作品を西洋的と感じると語る一方、キーンは逆に、文章や会話、物語の構造などから谷崎の方が西洋的と指摘するのも、それぞれの感性の違いが分かって面白い。
いしいしんじ「麦ふみクーツェ」
音楽家を目指す少年の物語。ファンタジーのような雰囲気だけど、内容はストレートなビルドゥングスロマン。
この世に生きる誰もがへんてこで、へんてこは自らのわざを磨いて生きていくしかない。少年が自らの“へん”を受け入れる瞬間が鮮やかに描かれていている。これを中学生くらいで読めていたら、どう感じただろう。
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