仏果を得ず

三浦しをん「仏果を得ず」

文楽の世界を舞台にした青春小説。役の性根を掴むことに苦心する主人公を通して、熱心な文楽ファンという三浦しをん自身の作品観も伺えて面白い。

古典は理解に苦しむ話が多いが、その雑多さは受け取る側に向かって開かれている。小説中に作品名が次々と出てくるが、解説くささが無く、著者自身かなり楽しんで書いたのでは。
“仏果を得ず” の続きを読む

黙阿弥

河竹登志夫「黙阿弥」

河竹黙阿弥の評伝だが、天覧劇を巡る関係者の思惑など、江戸~明治の大変動期を描いた読み物としても無類の面白さ。

時代の転機は歴史上数あれど、これほど短期に、作為的に文化の変革が試みられたことは少ない。義太夫や花道は陋習なのか。歌舞伎は荒唐無稽なのか。演劇改良運動など、歌舞伎のあり方をも一変させようとする欧化の嵐の中で、江戸を代表する作者は嵐を黙してやり過ごし、引退を元の木阿弥として死ぬ直前まで書き続けた。
“黙阿弥” の続きを読む

歌舞伎の源流

諏訪春雄「歌舞伎の源流」

舞台、櫓、看板のあり方、隈取、花道、型の成立など、歌舞伎の諸要素の源流はどこにあるのか。日本の芸能というと謡曲、浄瑠璃、歌舞伎を直線的に理解してしまうが、浄瑠璃のルーツの一つに中国の変文があることなど、常に大陸からの影響を受けて日本の伝統芸能は形作られてきたことが分かる。
“歌舞伎の源流” の続きを読む

勘九郎とはずがたり

「勘九郎とはずがたり」

先年亡くなった十八代目中村勘三郎の勘九郎時代の芸談。30代半ば、語りそのままの文章で、結構生意気なことを言っているのに、なぜか許せてしまう軽妙な人柄がとてもよく出ている。正直で、何を差し置いてもとにかく歌舞伎が好きという気持ちが伝わってくるからだろう。

いつか孫と……というくだりが切ない。勘三郎の名跡を復活させた偉大な先代で、気分屋だったという父、十七代目についてのエピソードが面白い。

桂米朝 私の履歴書

「桂米朝 私の履歴書」

戦後、ほぼ消滅しかかっていた上方落語を復興させた桂米朝の自伝。

落語が好きで仕方がなかった少年の半生が、ほぼそのまま上方落語の戦後史になった。テレビの普及で落語家が重宝されるなどの外的要因もあったが、この人がいなくては、現在の上方の芸能、さらに言うなら笑いの文化そのものがどれほど変わっていただろうか。学究肌で落語への情熱に溢れながら、それらすべてをユーモアで包むような人柄が伝わってくる。

松緑芸話

「松緑芸話」

二代目尾上松緑の芸談。七代目幸四郎の三男で、長兄が十一代目團十郎、次兄が八代目幸四郎。六代目菊五郎に預けられたことで、音羽屋と、さらには九代目團十郎の芸を継ぐことになる。前半は幼少期から戦争体験を経ての半生記。兄たちの人柄など貴重な証言で、かつ面白い。中盤からは各演目の見せ方の工夫など。「一谷嫩軍記」の團十郎型、芝翫型の違いなどが興味深い。
“松緑芸話” の続きを読む

芸能語源散策

小池章太郎「芸能語源散策」

古本屋で目についた一冊。「十八番」や「二枚目」、「三枚目」など、芝居由来ということが広く知られている言葉から、「お土砂」などのマイナーな言葉まで、語源を考察しながら歌舞伎の舞台裏などを綴ったエッセイ。ひと昔前の本だけあって、最近は見ない言葉まで載っているのが面白い。

「千松」なんて、『伽羅先代萩』や『伊達の十役』を見たことがあるから意味が推察できたものの、今でも使っているのだろうか。
“芸能語源散策” の続きを読む

盆踊り 乱交の民俗学

下川耿史「盆踊り 乱交の民俗学」

副題にあるように盆踊りの発生を巡る考察を通じて乱交の歴史を紐解く。歌垣や雑魚寝という性の場と、芸能の起源としての風流(ふりゅう、現代の「風流」ではなく、侘び寂びに対峙する奇抜な美意識)、それらはやがて村落共同体で盆踊りへと洗練されていく。しかし、明治に入ると盆踊りは禁止され、同時に性の世界は日常生活の表舞台から消えてしまった。
“盆踊り 乱交の民俗学” の続きを読む