文楽の研究

三宅周太郎「文楽の研究」

昭和初期から終戦直後にかけて書かれた評論。明治以降、火災や戦災、人気の波で何度も危機に見舞われた文楽界の雰囲気が現在形で伝わってきて興味深い。御霊文楽座の火災などがどれほど大きな事件だったのか分かる。

芸の道の中でも文楽は特に厳しい。10年、20年どころではない果てしない下積みと稽古の日々。大序の大夫や人形遣いの困窮を綴った章は読み物としても心に残る。

著者は文楽の未来を後継者不足や技量の低下でかなり悲観しているが、それでも現代まで文楽はしぶとく生き延びてきた。この本で入門したての若手として名前が上がっている人々が、半世紀以上が経った今、人間国宝となっているのが感慨深い。人から人へ受け継がれてきた芸の貴重さ、かけがえのなさが胸を打つ。

浄瑠璃素人講釈

杉山其日庵「浄瑠璃素人講釈」

国家主義者で、明治から昭和初期にかけて政界のフィクサーとして知られた杉山茂丸の著書。文楽の愛好家で自身も義太夫節を習っていた杉山が名人から受けた教えを細かく記したもので、上巻は「傾城冥途飛脚」や「仮名手本忠臣蔵」、下巻は「妹背山婦女庭訓」「伽羅先代萩」など。

講釈部分ははっきり言って素人には全く理解できないが、合間に綴られた名人たちとの思い出から当時の雰囲気が伝わってきてかなり面白い。昭和の伝説的名人、豊竹山城少掾が若手として出てくるだけで溜息が出る。

金でも、名誉でも、生活のためでもなく、ただただ芸を磨くためだけに一生を捧げた当時の大夫たちの姿を通じて、現代に至って芸の世界が何を失ったのか考えさせられる。杉山自身も素人とは言えかなりのレベルだったらしく、芸に対してはかなり辛口。素人の馬鹿天狗だとか、臭くもない屁を放ったと一緒とか、いちいち表現が面白い。

杉山が繰り返し語っているのが、その曲を初演ないし確立させた大夫の「風」を身につけなくてはいけないということ。それぞれの曲を語ってきた大夫の名前を挙げ、西風か東風か、さらにどの大夫の様式に従って語ればいいのかを考察している。先人が歩いてきた道をしっかりと辿るからこそ芸と呼べるという言葉は、義太夫にとどまらない芸術論といえる。

豊竹山城少掾らその後の名人の誕生を支えた偉大な一冊だが、文章は頑固親父の蘊蓄語りといった感じでかなりユーモラス。往時の斯界の雰囲気が伝わってきて、読み物としてもかなり面白い。

歌舞伎 型の真髄

渡辺保「歌舞伎 型の真髄」

動きから衣装、化粧、舞台美術、さらには役の内面まで歌舞伎の演目には複数の型がある。近代の舞台芸術なら演出家に従属する要素が、個々の役者に備わるのが面白い。だからこそ、歴代の役者の解釈と美意識の膨大な蓄積を芸として抱えることができる。

さまざまな役の型の違いを比較し、その型が生まれた経緯が分かる教科書のような本だが、歌舞伎初心者の自分はここに出てくる演目の3分の1もまだ見たことがないため、具体的な場面が浮かばないのが残念。

米朝ばなし

桂米朝「米朝ばなし」

落語に縁のある上方の土地を歩く。地図に道頓堀五座が書かれているなど、昔の面影がまだぎりぎり残っていた時代の文章で、二重に興味深い。

文中で現代として描かれている光景も既に過ぎ去った過去となっている。土地や時代背景を踏まえて落語に触れると、気の利いたサゲや言葉遊びの豊穣さに驚かされる。

一方で、それらの面白さが現代ではほとんど通じないだろうことが寂しくもある。「浅草と深草なら少々の違い」くらいならまだしも、「天神さんは紙幣がきらい」「夜のこぶは見逃しがならん」などぱっと理解できる人がどのくらいいるのだろう。

日本の舞踊

渡辺保「日本の舞踊」

舞踊という最も言葉で表現しにくい芸能をいかに語るか。

著者は「身体の声」という言葉を使う。これだけでは色々な文脈で使われる表現のため、多様に理解できてしまうが、その声とは何かを、井上八千代や友枝喜久夫ら名人の芸を比較して丁寧に説明する。
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文楽へようこそ

桐竹 勘十郎、吉田玉女「文楽へようこそ」

文楽の入門書と言うよりは、人形遣い、桐竹勘十郎、吉田玉女のファン本。初心者向きに書かれてはいるが、二人の好きな演目の解説や遣い方の工夫などはある程度文楽の舞台にふれたことがある人向け。スターを作らない文楽という芸能で、こうした本は珍しい。入門書や研究書には無い内容で、読んでいてかなり楽しい。二人のファン、文楽ファン、そして今まさに文楽にはまりつつある人、必読。

舞台の奥の日本 ―日本人の美意識

河竹登志夫「舞台の奥の日本 ―日本人の美意識」

舞台芸術を通じた日本文化論。

日本の舞台は「再現」では無く「示現」の芸術であり、劇的葛藤より、葛藤後の道行などを最大の見せ場とすることに象徴されるように、情感こそ全てに優先される。見得など絵面が重視され、殺人のシーンさえ、それでひとつの見せ物として完成させてしまう唯美的な芸能とも言える。
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ふるあめりかに袖はぬらさじ

有吉佐和子「ふるあめりかに袖はぬらさじ」

露をだに厭う倭の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ

自ら命を絶った遊女、亀遊は攘夷の嵐の中、偽りの辞世の句まで添えられ、攘夷女郎としてまつりあげられる。親しかった芸者、お園は時代の空気に流され、虚構を語り継ぐ。

伝説は求める者がいて生まれる。まさに現代社会にも通じる作品。

実際に玉三郎のお園で上演されているが、読んでいて歌舞伎の舞台が目に浮かぶような台詞の数々が素晴らしい。

併録の「華岡青洲の妻」も小説の戯曲化で、献身的な妻と母、その対立に気付きながら利用していた青洲、誰一人として本心を喋らない。シンプルな台詞のやりとりに息が詰まるような緊張感が漂う。

「菅原伝授手習鑑」精読 ―歌舞伎と天皇

犬丸治「『菅原伝授手習鑑』精読 ―歌舞伎と天皇」

道真伝説を題材とした作品の代表ともいえる「菅原伝授手習鑑」の読み解き。ただの解説にとどまらない刺激的な内容で、予想外の面白さ。

やがて神となる菅丞相は、物語の序盤から無謬で不可侵の存在として描かれ、全てがそこへと捧げられる。奇跡は菅丞相には起こっても、周りの人間には起こらない。

特に、忠義のために我が子を犠牲とする寺子屋の段。これを異常ととるか理想ととるかは、時代を映す鏡とも言える。夫婦の「せまじきものは宮仕え」という嘆きは、明治以降、天皇制が強化される中で「お宮仕えはここじゃわい」と書き換えられる。夫婦の苦しみは、主君への絶対的な忠誠を美徳とする時代に飲み込まれてしまった。

一見すると忠義が全てという物語は現代の目から見れば異常だが、それでも心を動かされるのは、随所に人間性の発露があるからだろう。今再び「せまじきものは~」の嘆きが名場面として上演される時代となったことを幸せに思う。