フラニーとズーイ

サリンジャー「フラニーとズーイ」

村上春樹による新訳。

とにかく読んでいて胸が痛くなる。ズーイの言葉とフラニーのいらだちは、サリンジャー自身の叫びのようだ。信仰を巡る会話が延々と続き、当時はこれがそのままスピリチュアルな主題として受け止められたのだろうが、今読むと、それは訳者の村上春樹が指摘しているようにメタファーとして感じられる。かえって多くの人の心に迫るのでは。
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爪と目

藤野可織「爪と目」

二人称という難しい形式を、娘から継母への視点で巧みにまとめあげている。しかも幼少期の出来事を語ることで3歳児のまなざしと重ね、そこに計り知れない敵意、悪意、あるいは諦観のようなものを感じさせる。まるで自分の無い大人の描写も気味が悪い。ただ併録の2編も含めて、書かれている内容や雰囲気の割には、なぜこれを書くのか、書かざるを得ないのかという、作品に対する切実さのようなものはあまり感じられなかった。

勘九郎とはずがたり

「勘九郎とはずがたり」

先年亡くなった十八代目中村勘三郎の勘九郎時代の芸談。30代半ば、語りそのままの文章で、結構生意気なことを言っているのに、なぜか許せてしまう軽妙な人柄がとてもよく出ている。正直で、何を差し置いてもとにかく歌舞伎が好きという気持ちが伝わってくるからだろう。

いつか孫と……というくだりが切ない。勘三郎の名跡を復活させた偉大な先代で、気分屋だったという父、十七代目についてのエピソードが面白い。

桂米朝 私の履歴書

「桂米朝 私の履歴書」

戦後、ほぼ消滅しかかっていた上方落語を復興させた桂米朝の自伝。

落語が好きで仕方がなかった少年の半生が、ほぼそのまま上方落語の戦後史になった。テレビの普及で落語家が重宝されるなどの外的要因もあったが、この人がいなくては、現在の上方の芸能、さらに言うなら笑いの文化そのものがどれほど変わっていただろうか。学究肌で落語への情熱に溢れながら、それらすべてをユーモアで包むような人柄が伝わってくる。

ゆれる

西川美和「ゆれる」

当人たちも目を反らしてきた兄弟間の微妙な感情が、ある事件を機に露わになる。どんな関係でも、好意を持っている相手にでも、人と人との間には隠したい醜い思いもつきまとう。嫉妬や羨望、苛立ち、軽蔑、生理的な嫌悪……

この小説版は登場人物がそろって饒舌すぎる気もするけど、一人一人の語りを通じて秘められた感情を剥き出しにしていく手法は巧み。どこか嫌な、見たくないものを見た感じが残る。

松緑芸話

「松緑芸話」

二代目尾上松緑の芸談。七代目幸四郎の三男で、長兄が十一代目團十郎、次兄が八代目幸四郎。六代目菊五郎に預けられたことで、音羽屋と、さらには九代目團十郎の芸を継ぐことになる。前半は幼少期から戦争体験を経ての半生記。兄たちの人柄など貴重な証言で、かつ面白い。中盤からは各演目の見せ方の工夫など。「一谷嫩軍記」の團十郎型、芝翫型の違いなどが興味深い。
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