魚神

千早茜「魚神」

どこの国の、いつの時代かも分からない掃溜めのような島で互いを心の拠り所に暮らしていた姉弟。伝説の遊女の名を継ぐ白亜、心を見せないスケキヨ。巨大魚と遊女の伝説。所々既視感はあるものの、デビュー作でこれだけ世界観を作ることができるのはかなりの大器を感じさせる。連作の絵画、あるいは耽美的な映像作品を見たような読後感。

話し言葉の日本語

井上ひさし、平田オリザ「話し言葉の日本語」

井上ひさしと平田オリザの対談集。もとが雑誌連載のせいか、広く浅くという感じだけど、二人とも言葉にこだわってきた劇作家だけに色々と気付かされる視点が多い。

小説は個人とともに誕生し、古来からの演劇が表現できなかった緻密な表現を可能にした、その上で現在再び小説では表現できないものが出てきている……という指摘は、優れた小説家でもある井上ひさしが感じていた現代文学の行き詰まりが伺えて興味深い。
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村上ラヂオ2 おおきなかぶ、むずかしいアボカド

村上春樹「村上ラヂオ2 おおきなかぶ、むずかしいアボカド」

久しぶりに村上春樹のエッセイ。相変わらずおもしろい。実のない話で、文章もこの力の抜け方はなかなか真似できない。

歳を感じさせないというか、小説は結構変化したけど、エッセイは昔からほとんど雰囲気が変わっていない気がする。さすがに内容にダブりが出てきてるけど。

悲劇の名門 團十郎十二代

中川右介「悲劇の名門 團十郎十二代」

昔ほどには序列がはっきりしなくなっているが、歌舞伎における名跡はまさに地位そのもの。そのなかでも最高位の團十郎を、歴代がどう生きたのか。それは役者が河原乞食から高尚な伝統芸能の担い手になるまでの歌舞伎の歴史そのものでもあり、実力がはっきりと分かる芸の世界で生まれながらに最高位を生きることは、それだけで複雑な一生を全ての團十郎に強いてきた。九代目とその後の空白期間を経て團十郎も幹部役者の一人に落ち着いているが、十三代目は今後どうなっていくのだろう。

島国チャイニーズ

野村進「島国チャイニーズ」

劇団四季からチャイナタウン、山形の農村の中国人妻まで、在日華僑、華人の話を聞いて歩く。

つい、「在日」として韓国・朝鮮系と(しばしばマイナスイメージで)ひとくくりに考えがちだが、日本での生活への満足度や、国籍、中国名へのこだわりの薄さなど実態は大きく異なる。雑誌連載がもとになっているためか、それぞれの話が少し浅いけど、在日チャイニーズの多様さに気付かされる。
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ヨーガの哲学

立川武蔵「ヨーガの哲学」

思想、宗教としての側面が忘れられつつある「ヨガ」。個人的に印度哲学の知識不足で思想としてはちんぷんかんぷんの内容だけど、宗教的実践としてのヨーガがどう発展してきたか、禅や密教にも通じる話で結構面白い。

心を止揚させるための古典ヨーガが、心の作用を活性化させるためのハタ・ヨーガへと変化し、健康法としてのヨガもこの流れを(欧米を経由して)継いでいる。「俗」を徹底的に否定することにより「聖」を目指す当初の立場が、「俗」を聖化する方向へと発展したのは、インドに限らず、他の宗教の歴史にも通じるものがあり、興味深い。

冠婚葬祭のひみつ

斎藤美奈子「冠婚葬祭のひみつ」

冠婚葬祭が現在の形になった歴史を取り上げた第1章が面白い。いかにも伝統っぽい神前式も、大正天皇の御婚儀を経て神社が結婚ビジネスに参入したことに始まる。葬儀も現在の告別式のルーツは中江兆民。どちらもせいぜい100年の歴史しかない。

桃と端午の節句が下火になる一方、宮参り、お食い初め、一升餅などのイベントの実施率は最近の方が高いというのも面白い。住宅事情や経済状況で、行いやすいイベントへと「伝統行事」は移っていく。
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わたしたちに許された特別な時間の終わり

岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」

本谷有希子、戌井昭人など、ここ数年評価が高い新人小説家の多くが演劇畑出身というのは、活字漬けで育ってきた身からすれば少し淋しい。大江賞を受賞した岡田利規もその一人で、ここに収録された「三月の5日間」は00年代で最も影響が大きかったとされる演劇の小説版。イラクで戦争が始まった日からの5日間、渋谷のラブホテルでだらだら過ごしている男女を描いただけで、そこにはドラマも何も無い。ただよく分からない“特別な感じ”だけが漂う。

“特別”が分からなくなった現代。村上春樹が描いた時代の喪失感の次をとらえかけているような気がしなくもない。