サド侯爵夫人・わが友ヒットラー

三島由紀夫「サド侯爵夫人・わが友ヒットラー」

サド侯爵を周囲の女性から描く三島由紀夫の戯曲。三島自身が解題で書いているように、日本で特異に発達した“翻訳劇演技”を逆手にとって豊穣な台詞を語らせている。詩のような言葉が続き、対話というより語り、様式美の世界。意識してこのような作品を書ける三島の超絶技巧にため息が出る。

併録の「わが友ヒットラー」は「サド侯爵夫人」ほどの衝撃は無いが、分かりやすく、スリルのある政治劇。粛正されるレームへの共感が滲んでおり、三島の政治観とともに人生観も垣間見えて興味深い。

すき・やき

楊逸「すき・やき」

高級すき焼き店で働く中国人留学生の日常を、さらっとしたタッチで描く。変な装飾の無い文章が、やわらかく、読んでいて気持ちがいい。ほほえましい恋愛要素もありつつ、普遍的なコミュニケーション論にもなっている。大学での韓国人留学生とのちぐはぐな日本語会話が面白い。ピュアすぎる気もするけど、主人公が魅力的で万人にお勧めの一冊。

頭巾かぶって五十年 ―文楽に生きて

吉田簑助「頭巾かぶって五十年 ―文楽に生きて」

吉田簑助の自伝と芸談。あらゆる芸能の中でも特に厳しい世界の、最も苦しい時代を生き抜いて来た人だが、そこからこぼれる言葉は素朴な温かみにあふれている。幼い頃から人形浄瑠璃の世界に遊び、芸のこと以外は何も知らない、来世も人形遣いになるという淡々としながらも重みのある言葉。決して苦労を声高に語りはしない、その姿勢は、半世紀を斯道に捧げてもなお上を見続けているからだろう。優れた人形遣いだけが表現できる、生身の人間には無い透明な情、それがどこから来るのか分かった気がする。土門拳や入江泰吉が撮った幼少期の写真が載っていて、それだけでも感動。

演劇のことば

平田オリザ「演劇のことば」

築地小劇場以降の演劇史を振り返りつつ、なぜ演劇と日常の言葉遣いが隔絶してしまったのかを考察する。

日本では歌舞伎や人形浄瑠璃の興行が発達しており、音楽や美術のように西洋芸術を直接移入せず、既存の演劇を改良しようとすることで近代化が始まった。それがかえって演技の近代化の遅れに繋がり、やっと岸田國士などが登場し始めた時には政治が芸術を取り込み始めていた。演劇はイデオロギーの言葉を語らざるを得ず、成熟できないまま戦後に至る。結果的に、演技とは、日常離れした言葉をいかに役者の身体にのせるかという特殊な技術となっていった。

近代演劇史に関する手頃な本があまりない中、分かりやすい一冊。

文楽の研究

三宅周太郎「文楽の研究」

昭和初期から終戦直後にかけて書かれた評論。明治以降、火災や戦災、人気の波で何度も危機に見舞われた文楽界の雰囲気が現在形で伝わってきて興味深い。御霊文楽座の火災などがどれほど大きな事件だったのか分かる。

芸の道の中でも文楽は特に厳しい。10年、20年どころではない果てしない下積みと稽古の日々。大序の大夫や人形遣いの困窮を綴った章は読み物としても心に残る。

著者は文楽の未来を後継者不足や技量の低下でかなり悲観しているが、それでも現代まで文楽はしぶとく生き延びてきた。この本で入門したての若手として名前が上がっている人々が、半世紀以上が経った今、人間国宝となっているのが感慨深い。人から人へ受け継がれてきた芸の貴重さ、かけがえのなさが胸を打つ。

浄瑠璃素人講釈

杉山其日庵「浄瑠璃素人講釈」

国家主義者で、明治から昭和初期にかけて政界のフィクサーとして知られた杉山茂丸の著書。文楽の愛好家で自身も義太夫節を習っていた杉山が名人から受けた教えを細かく記したもので、上巻は「傾城冥途飛脚」や「仮名手本忠臣蔵」、下巻は「妹背山婦女庭訓」「伽羅先代萩」など。

講釈部分ははっきり言って素人には全く理解できないが、合間に綴られた名人たちとの思い出から当時の雰囲気が伝わってきてかなり面白い。昭和の伝説的名人、豊竹山城少掾が若手として出てくるだけで溜息が出る。

金でも、名誉でも、生活のためでもなく、ただただ芸を磨くためだけに一生を捧げた当時の大夫たちの姿を通じて、現代に至って芸の世界が何を失ったのか考えさせられる。杉山自身も素人とは言えかなりのレベルだったらしく、芸に対してはかなり辛口。素人の馬鹿天狗だとか、臭くもない屁を放ったと一緒とか、いちいち表現が面白い。

杉山が繰り返し語っているのが、その曲を初演ないし確立させた大夫の「風」を身につけなくてはいけないということ。それぞれの曲を語ってきた大夫の名前を挙げ、西風か東風か、さらにどの大夫の様式に従って語ればいいのかを考察している。先人が歩いてきた道をしっかりと辿るからこそ芸と呼べるという言葉は、義太夫にとどまらない芸術論といえる。

豊竹山城少掾らその後の名人の誕生を支えた偉大な一冊だが、文章は頑固親父の蘊蓄語りといった感じでかなりユーモラス。往時の斯界の雰囲気が伝わってきて、読み物としてもかなり面白い。

遠野物語remix

京極夏彦「遠野物語remix」

京極夏彦が遠野物語を現代語にしてリミックス。原文が平易で現代語訳があまり必要無い作品だが、並び替えと意訳で読みやすくなっている。一方、京極夏彦の特徴的な文体が、小説、フィクションの雰囲気を強くしてしまっているきらいもある。それでも、人と自然の関係が密接で、理解できない世界が日常のすぐ隣に横たわっている感覚、こうした世界に人は生きてきたのだろうと感じさせる原作の強い力は失われていない。

坊っちゃん

夏目漱石「坊っちゃん」

ユーモアに満ちていて、どこか切ない。

近世以前の古典作品にしろ、漱石にしろ、改めて読むと自然なユーモアに満ちていて驚かされる。日本文学はおおらかで豊かな土壌に育っていたのに、いつの間にか痩せた土地ばかり耕しているのではないか。

署名人/ぼくらは生れ変わった木の葉のように/楽屋

清水邦夫「署名人/ぼくらは生れ変わった木の葉のように/楽屋」

清水邦夫の初期の戯曲3編。代表作「楽屋」と処女作「署名人」は、シンプルだが、独特なテンポで交わされる鋭い言葉のやりとりに中毒性がある。闖入者が取り込まれて逃げ出せなくなる「木の葉のように」は、安部公房の「友達」を逆転させたような怖さがあって面白い。