マシアス・ギリの失脚

池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」

物語の筋は既にタイトルに示されている。神話も含めて一つの世界を作り上げる試み。

著者自身が「百年の孤独」のようなものを書きたかったと別の場所で書いていたが、「族長の秋」「予告された殺人の記録」を思わせる部分もある。ただ全体としては、ガルシア・マルケスのようなものを書こうとして、結果的に辿り着いたのは別の物という印象が強い。池澤夏樹の思想、世界観がはっきりと示されていて、日本を“宗主国”とする架空の島国を通じて、日本を描いた作品とも言える。

カンガルー・ノート

安部公房「カンガルー・ノート」

かいわれ大根が脛に生えてきた男の地獄巡り。脈絡の無い、物語の飛翔の仕方が夢のよう。ただ意味不明なだけでなく、ちゃんと夢の論理のようにストーリーとスピード感があるのが凡百の前衛小説とは決定的に違う。

高校生のころに読んだ時にはなんとなく面白いという印象しか残らなかったが、今回はあまりに濃厚な死の雰囲気に胸が詰まった。病床の安部公房の夢が駆け巡った“枯野”なのだろう。
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方舟さくら丸

安部公房「方舟さくら丸」

久しぶりに再読。

採石場跡に築いた巨大な地下シェルターで引きこもりのように暮らし、その“方舟”で滅亡後の世界を生き延びる仲間を探す男。わずかに湿り気のあるような、不快さを帯びた文章。人間の残忍さ、薄情さ、不安定さ、論理的であることの醜悪さ、現世の気持ち悪さを偽悪的にならずに書き得た希有な作家だったと改めて感じる。
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きもの

幸田文「きもの」

明治の末に東京の下町に生れたるつ子。着物の肌触りとともに残った数々の記憶。祖母の姿勢に生きていく上でのたしなみや気構えを学び、姉たちの姿から成長して人が変わっていくことの、両親の姿から生きることの悲哀を感じ、少しずつ成長していく。

何をどう着るかは、どう生きるかの現れでもある。「崩れ」でも感じたが、幸田文の感性の鋭さと、それを文章で表現する際の瑞々しさは全く古さや老いを感じさせない。江戸っ子の気風のようなものかもしれない。終盤の関東大震災の描写もとても現実感を持って迫ってくる。

一の糸

有吉佐和子「一の糸」

芸道一筋に生きた文楽三味線弾きの露沢徳兵衛と、その後添えとして生涯をささげた酒屋の箱入り娘の茜の一生を、敗戦、文楽会の分裂、鶴澤清六と山城少掾の決別など、現実の出来事をモデルに交え描いた長篇小説。
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掏摸

中村文則「掏摸」

スリ師の主人公の前に現れる、悪の塊のような男。設定も人物描写もリアリティに乏しいけど、かえって話の軸がはっきりと感じられ、一種の犯罪小説として物語に引き込まれる。登場人物の内面描写も最小限で、運命の理不尽さが際立つ。文体も物語の速度も現代的だけど、全体に漂う“悪ぶった感じ”は、どこか古風な印象。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

村上春樹としては驚くほど“分かりやすい”作品。

これまでの中~長篇は、どれも文章にも物語にも、調和を崩す、解釈を拒むような要素や表現があったが、それがない。昔の作品のように喪失感や疎外感を書きながら、その先を書いている点で、過去の作品とは決定的に違う。かつて書けなかったものを書こうとしているようだ。

村上春樹の現在の立ち位置をはっきりと示している作品と言え、「神の子どもたち~」以降試されてきた三人称にも、今回初めて違和感を感じなかった。

儚い羊たちの祝宴

米澤穂信「儚い羊たちの祝宴」

ミステリーというよりもホラーの連作短編集。「ラスト一行の衝撃」という帯は少し大げさだけど、各編とも終盤で登場人物の歪みが明らかにされて、途端にホラー作品になる。この著者の作品を読んだのはこれが初めて。衒学的なライトノベルって感じの文章で、巻末の参考文献に中野美代子の名前があって納得。