三好十郎「炎の人」
炎の人、ゴッホ。その評伝劇というより、むしろ讃歌。ストレートな言葉の数々が美しい。ゴッホと三好十郎自身の姿がだぶるが、さらにこの戯曲中のゴッホには、人類のかけがえのない滑稽さのようなものが重なって見える。貧しい中でも、先が見えなくても、必死で何かを生み出そうとする人間の営みに対する力強い讃歌といえる作品。
読んだ本の記録。
平田オリザ「演劇のことば」
築地小劇場以降の演劇史を振り返りつつ、なぜ演劇と日常の言葉遣いが隔絶してしまったのかを考察する。
日本では歌舞伎や人形浄瑠璃の興行が発達しており、音楽や美術のように西洋芸術を直接移入せず、既存の演劇を改良しようとすることで近代化が始まった。それがかえって演技の近代化の遅れに繋がり、やっと岸田國士などが登場し始めた時には政治が芸術を取り込み始めていた。演劇はイデオロギーの言葉を語らざるを得ず、成熟できないまま戦後に至る。結果的に、演技とは、日常離れした言葉をいかに役者の身体にのせるかという特殊な技術となっていった。
近代演劇史に関する手頃な本があまりない中、分かりやすい一冊。
河竹登志夫「舞台の奥の日本 ―日本人の美意識」
舞台芸術を通じた日本文化論。
日本の舞台は「再現」では無く「示現」の芸術であり、劇的葛藤より、葛藤後の道行などを最大の見せ場とすることに象徴されるように、情感こそ全てに優先される。見得など絵面が重視され、殺人のシーンさえ、それでひとつの見せ物として完成させてしまう唯美的な芸能とも言える。
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有吉佐和子「ふるあめりかに袖はぬらさじ」
露をだに厭う倭の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ
自ら命を絶った遊女、亀遊は攘夷の嵐の中、偽りの辞世の句まで添えられ、攘夷女郎としてまつりあげられる。親しかった芸者、お園は時代の空気に流され、虚構を語り継ぐ。
伝説は求める者がいて生まれる。まさに現代社会にも通じる作品。
実際に玉三郎のお園で上演されているが、読んでいて歌舞伎の舞台が目に浮かぶような台詞の数々が素晴らしい。
併録の「華岡青洲の妻」も小説の戯曲化で、献身的な妻と母、その対立に気付きながら利用していた青洲、誰一人として本心を喋らない。シンプルな台詞のやりとりに息が詰まるような緊張感が漂う。
安部公房「幽霊はここにいる・どれい狩り」
安部公房の初期戯曲集。どれも安部公房のエッセンスが見事につまっていて、さらに、なぜ演劇に足を踏み入れたのかがはっきり分かる作品となっている。
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井上ひさし、平田オリザ「話し言葉の日本語」
井上ひさしと平田オリザの対談集。もとが雑誌連載のせいか、広く浅くという感じだけど、二人とも言葉にこだわってきた劇作家だけに色々と気付かされる視点が多い。
小説は個人とともに誕生し、古来からの演劇が表現できなかった緻密な表現を可能にした、その上で現在再び小説では表現できないものが出てきている……という指摘は、優れた小説家でもある井上ひさしが感じていた現代文学の行き詰まりが伺えて興味深い。
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