炎の人

三好十郎「炎の人」

炎の人、ゴッホ。その評伝劇というより、むしろ讃歌。ストレートな言葉の数々が美しい。ゴッホと三好十郎自身の姿がだぶるが、さらにこの戯曲中のゴッホには、人類のかけがえのない滑稽さのようなものが重なって見える。貧しい中でも、先が見えなくても、必死で何かを生み出そうとする人間の営みに対する力強い讃歌といえる作品。

千のナイフ、千の目

蜷川幸雄「千のナイフ、千の目」

自伝とエッセイ。蜷川幸雄の仕事は現代の「演出家」という枠を超え、芸術のジャンルが細分化される前の、非日常の空間を提示するという原点に迫るスケールの大きさを感じる。だからこそ、そのフィールドは商業演劇でなくてはならなかったのだろう。五十代のころの文章だが、きっと今もその芯はほとんど変わっていない。80歳を目前になお新しい空間を生み出し続ける、その創造力が何に支えられているのか、なんとなくわかった気がする。

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー

三島由紀夫「サド侯爵夫人・わが友ヒットラー」

サド侯爵を周囲の女性から描く三島由紀夫の戯曲。三島自身が解題で書いているように、日本で特異に発達した“翻訳劇演技”を逆手にとって豊穣な台詞を語らせている。詩のような言葉が続き、対話というより語り、様式美の世界。意識してこのような作品を書ける三島の超絶技巧にため息が出る。

併録の「わが友ヒットラー」は「サド侯爵夫人」ほどの衝撃は無いが、分かりやすく、スリルのある政治劇。粛正されるレームへの共感が滲んでおり、三島の政治観とともに人生観も垣間見えて興味深い。

演劇のことば

平田オリザ「演劇のことば」

築地小劇場以降の演劇史を振り返りつつ、なぜ演劇と日常の言葉遣いが隔絶してしまったのかを考察する。

日本では歌舞伎や人形浄瑠璃の興行が発達しており、音楽や美術のように西洋芸術を直接移入せず、既存の演劇を改良しようとすることで近代化が始まった。それがかえって演技の近代化の遅れに繋がり、やっと岸田國士などが登場し始めた時には政治が芸術を取り込み始めていた。演劇はイデオロギーの言葉を語らざるを得ず、成熟できないまま戦後に至る。結果的に、演技とは、日常離れした言葉をいかに役者の身体にのせるかという特殊な技術となっていった。

近代演劇史に関する手頃な本があまりない中、分かりやすい一冊。

署名人/ぼくらは生れ変わった木の葉のように/楽屋

清水邦夫「署名人/ぼくらは生れ変わった木の葉のように/楽屋」

清水邦夫の初期の戯曲3編。代表作「楽屋」と処女作「署名人」は、シンプルだが、独特なテンポで交わされる鋭い言葉のやりとりに中毒性がある。闖入者が取り込まれて逃げ出せなくなる「木の葉のように」は、安部公房の「友達」を逆転させたような怖さがあって面白い。

舞台の奥の日本 ―日本人の美意識

河竹登志夫「舞台の奥の日本 ―日本人の美意識」

舞台芸術を通じた日本文化論。

日本の舞台は「再現」では無く「示現」の芸術であり、劇的葛藤より、葛藤後の道行などを最大の見せ場とすることに象徴されるように、情感こそ全てに優先される。見得など絵面が重視され、殺人のシーンさえ、それでひとつの見せ物として完成させてしまう唯美的な芸能とも言える。
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ふるあめりかに袖はぬらさじ

有吉佐和子「ふるあめりかに袖はぬらさじ」

露をだに厭う倭の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ

自ら命を絶った遊女、亀遊は攘夷の嵐の中、偽りの辞世の句まで添えられ、攘夷女郎としてまつりあげられる。親しかった芸者、お園は時代の空気に流され、虚構を語り継ぐ。

伝説は求める者がいて生まれる。まさに現代社会にも通じる作品。

実際に玉三郎のお園で上演されているが、読んでいて歌舞伎の舞台が目に浮かぶような台詞の数々が素晴らしい。

併録の「華岡青洲の妻」も小説の戯曲化で、献身的な妻と母、その対立に気付きながら利用していた青洲、誰一人として本心を喋らない。シンプルな台詞のやりとりに息が詰まるような緊張感が漂う。

話し言葉の日本語

井上ひさし、平田オリザ「話し言葉の日本語」

井上ひさしと平田オリザの対談集。もとが雑誌連載のせいか、広く浅くという感じだけど、二人とも言葉にこだわってきた劇作家だけに色々と気付かされる視点が多い。

小説は個人とともに誕生し、古来からの演劇が表現できなかった緻密な表現を可能にした、その上で現在再び小説では表現できないものが出てきている……という指摘は、優れた小説家でもある井上ひさしが感じていた現代文学の行き詰まりが伺えて興味深い。
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