蔭の棲みか

玄月「蔭の棲みか」

朝鮮人集落を舞台とした表題作は正攻法の純文学。主人公のソバンの、70年余りの人生を生きた上での軽さや頼りなさ、意固地さが印象的な一方、他の登場人物の描写は少し曖昧で不自然に感じる。

併録の「おっぱい」の方が、いい加減だけど著者のユーモアが強調されていて読んで面白い。特にラストの雑さに味がある。

阿Q正伝

魯迅「阿Q正伝」

プライドが高く、自らに都合の良い思考回路を持ち、革命に意味もわからないまま熱狂する無知蒙昧な民衆を戯画化した“阿Quei”。魯迅の民衆に対する痛烈な視線は、辛亥革命から100年が経った現代の中国や日本にも通じる。阿Q正伝という題と前半の軽い筆致もかなり現代的だと思う。

併録の「狂人日記」「藤野先生」など、どれも短いが印象的。

逃亡

吉村昭「逃亡」

ふとしたきっかけで軍用飛行機を爆破し、航空隊を脱走する運命を背負った男の記録。

飯場を転々としながら終戦を迎え、その後も身を隠すように暮らし続ける。戦時下、反戦主義者でもない普通の人間が少しずつ追い詰められていく様子を、反戦でも無い、愛国でも無い、思想をはさまない淡々とした筆致で綴っていく。その静かな文章が、状況に翻弄される人生の脆さを際立たせている。

人の意志よりも、些細な事や社会の状況が選択肢を奪っていく。

終の住処

磯崎憲一郎「終の住処」

中年男の卑小な自意識。妻との会話がなくなり、不倫を繰り返す“彼”。結婚しても、親子でも、本質的には他人としての関係は何も変わらない。改行が殆ど無く、固有名詞が出てこない文体は狙ったのだと思うけど、内容自体はありきたりで、グロテスクさも中途半端。ただ、原因と結果、時間軸が混乱しただらだらとした描写は、閉じた意識の流れを描いたものとしてなかなか迫ってくるものがある。

紅梅

津村節子「紅梅」

吉村昭が亡くなるまでの1年半。主人公に育子という三人称を設定しているが、登場人物を夫、息子、娘と呼ぶ語りは完全に一人称視点。舌癌と膵がんの闘病生活は凄絶なものだったろうが、淡々とした描写はそれを感じさせない。

「夫は、胸に埋め込んであるカテーテルポートを、ひきむしってしまった。育子には聞き取れなかったが、『もう死ぬ』と言った、と娘が育子に告げた」
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ナイン・ストーリーズ

J.D.サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」

柴田元幸訳。サリンジャーの訳としてはフラットすぎるかもしれないけど、そのぶん、小説としての構成や人物造形の妙が際立つ。

結局多くの作品は残さなかった作家だが、この作品集を読むと、無限に作品を書けたのではないかと思える。巻頭に掲げられた禅の公案「両手を叩く音は知る、ならば片手を叩く音は?」。本来なら聞き得ない片手の音を追究するか、関係性を表す両手の音に注目するか、解釈は難しいが、「ライ麦畑」もこの作品集も、その問いに対するサリンジャーなりの試みなのだと思う。

屍者の帝国

伊藤計劃、円城塔「屍者の帝国」

伊藤計劃の残したプロローグに円城塔が書き継いだSF作品。屍者が動き、社会を支えている19世紀末の世界。屍者技術の根幹を成し、人間の意志を生み出す、菌株=任意のX=言葉、という設定、意識や言語といったモチーフは「虐殺器官」「ハーモニー」を連想させ、まさに伊藤計劃のもの。

一方で、細かな要素を盛り込むサービス精神(と、それ故の読みにくさ)は紛れもなく円城塔の作品。主人公はワトソン、他にもアリョーシャ、ダーウィン、ヴァン・ヘルシング……という実在、非実在の歴史上の人物が次々と登場する。

水に似た感情

中島らも「水に似た感情」

不思議な魅力にあふれた小説。自身の体験を書いているという意味では、エッセイやノンフィクションとも言えるかもしれない。

取材で訪れたバリを舞台に躁病が高じていく前半と、入院を経て島を再訪する、不思議な静けさに満ちた後半。シンプルな中島らもの文体も、特に特徴が無いのに、読みやすいだけでなく、読んでいて少しずつ心が落ち着いていく。
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