「空気」の研究

山本七平「『空気』の研究」

日本の社会は「空気」と「水」でできている。空気を読むことと、水を差すこと。判断を空気に任せてしまうことは、結局誰も責任をとらないことにつながる。出撃が無謀だというデータが揃っていたのに出撃し沈んだ戦艦大和から現代に至るまで、事例は枚挙にいとまがない。「そうせざるを得なかった」で突き進む日本社会。水を差すことは本質的な反省を含まず、空気の支配を強化している。
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神道の逆襲

菅野覚明「神道の逆襲」

ポップな(少しださい)タイトルの割には中身は全然ポップではなく、しっかりとした神道思想史。伊勢神道、吉田神道、垂加神道から、本居宣長や平田篤胤らの神道解釈まで、日本人にとって神様とは何か、の思想を追っていく。個人的には、国家神道や現在の神社神道がなぜ成立したのかを含めて神祇信仰全体の歴史を知りたくて手にとった本だが、そうした総合的な視野で書かれたものではなく、あくまで思想史。政治や社会情勢に対する言及は少ない。

目の見えない人は世界をどう見ているのか

伊藤亜紗「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

“見る”ということから考える身体論。

全盲という状態を、見えている状態を基準に「視覚情報の欠如」として捉えるのではなく、「視覚抜きで成立している身体」として考える。情報が少ないぶん自由であるという視点は目からうろこ。
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日本宗教史

末木文美士「日本宗教史」

記紀神話に始まり儒教や思想にも触れていて、どのように日本人の“古層”が形成されてきたか、日本精神史とも言える充実した内容。

個人的に、仏教と神祇信仰は二本柱のように独立して存在し、その中間に神仏習合の領域があると考えていたが、実際には両者は互いに影響しあい、大きく変容してきた。特に日本古来の伝統と考えられがちな神祇信仰が、仏教の影響で形成されてきた過程が興味深い。
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神々の明治維新 ―神仏分離と廃仏毀釈

安丸良夫「神々の明治維新 ―神仏分離と廃仏毀釈」

明治新政府が進めた神仏分離政策は日本人の信仰を大きく歪めたはずなのに、それについてまとめた書物は少ない。日本史の授業でもほとんど習わない。それぞれの寺社にとっても誇れる歴史では無いから語られずに来たのだろう。廃仏毀釈の嵐も今となっては全体像を掴むのは困難となっている。
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世界しあわせ紀行

エリック・ワイナー「世界しあわせ紀行」

幸福の探求は不幸の主たる原因の一つ。それを承知で著者は“幸せな土地”を求める旅に出る。

GNHを掲げるブータン、税金の無いカタール、極寒のアイスランド、マイペンライのタイ、インドのアシュラム……

幸せな人と不幸な人を分ける境はどこにあるのだろう。そしてそれに社会制度や文化、風土が影響を与えるのだろうか。そもそも幸福こそが最も価値あるものなのか。
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ヨーガの哲学

立川武蔵「ヨーガの哲学」

思想、宗教としての側面が忘れられつつある「ヨガ」。個人的に印度哲学の知識不足で思想としてはちんぷんかんぷんの内容だけど、宗教的実践としてのヨーガがどう発展してきたか、禅や密教にも通じる話で結構面白い。

心を止揚させるための古典ヨーガが、心の作用を活性化させるためのハタ・ヨーガへと変化し、健康法としてのヨガもこの流れを(欧米を経由して)継いでいる。「俗」を徹底的に否定することにより「聖」を目指す当初の立場が、「俗」を聖化する方向へと発展したのは、インドに限らず、他の宗教の歴史にも通じるものがあり、興味深い。

陰翳礼讃

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

重々しい題から高尚な芸術論かと思われがちだが、基本的には偏屈文士の愚痴エッセイ。

西洋的なもの対する捉え方が結構偏見に満ちていて面白い。西洋人が清潔すぎると言って、「あの白い汚れ目のない歯列を見ると、何んとなく西洋便所のタイル張りの床を想い出すのである」。
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風姿花伝

「風姿花伝」

観阿弥の教え、世阿弥の書。

世阿弥は能の美を花に喩え、花を知るために種=技芸を知るよう説く。

「花のあるやうをしらざらんは、花さかぬ時の草木をあつめてみんがごとし」
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宮沢賢治 存在の祭りの中へ

見田宗介「宮沢賢治 存在の祭りの中へ」

宮沢賢治は牧歌的なイメージとは裏腹に、作品にもその思想にも自己否定の影が付きまとう。自己否定の先、自我からの脱却の向こうに見えた存在の豊かさ、世界の美しさ。結果的に“デクノボー”として生き抜くことはできなかったが、そこに向けて、存在の祭りの中を歩き続けた。

「近代の自我の原型が、いわば偏在する闇の中をゆく孤独な光としての自我ともいうべきものであることとは対照的に、ここでの修羅は、偏在する光の中をゆく孤独な闇としての自我である」