ブルーシート

飴屋法水「ブルーシート」

現代美術の領域でも活躍してきた飴屋法水の作・演出で、2013年に福島県の高校生によって上演された作品。多くの死と日常の消失を目の当たりにした高校生の“もがき”のようなものが、抽象的な断片の積み重ねと瑞々しい言葉で綴られている。第58回岸田國士戯曲賞受賞作。
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ファミコンとその時代

上村雅之、細井浩一、中村彰憲「ファミコンとその時代」

ビデオゲームの誕生から、ファミコンの登場、流行まで。主著者の上村雅之氏はファミコンの開発者の一人であり、まさにテレビゲームの正史と呼べる一冊。社会、経済の変化を扱った読み物としても非常に読み応えがある。ファミコンの発売30周年を迎えた2013年の刊。ファミコン世代にとっては、自分たちの時代を客観視するためにも必読の一冊。
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あすなろ物語

井上靖「あすなろ物語」

自分が何者にもなれないのかもしれないという現実を、人が初めて見つめるのはいつのことだろうか。

「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって!」

翌檜(あすなろ)の名は「明日は檜になろう」という言葉から来ているという。明日は何者かになろうと夢見る青年たちの姿を描く井上靖の初期の代表作。六つの短編で、少年・鮎太の成長を綴る。
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とんでも春画 妖怪・幽霊・けものたち

鈴木堅弘「とんでも春画 妖怪・幽霊・けものたち」

江戸時代、春画は決して異端の芸術ではなく、大衆的な広がりを持った文化だった。2015、16年に東京・京都で春画展が開かれ、春画に対する注目が高まったが、メディアで紹介される春画は“常識的”なものが多い。しかし、性的なタブーの少なかった近世以前の日本において、人々の想像力が現代の常識の枠内に収まっているはずがない。少しでも目立とうとする芸術家と版元の世界においては言うまでもなく、葛飾北斎には有名な「蛸と海女」があるし、男色、獣姦、幽霊・妖怪との交わりなど、ありとあらゆる営みが春画には描かれている。

本書はそうした多彩な春画約130点を掲載。表紙の骸骨は歌川国芳(股間の骨に注目)。
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ディアスポラ

グレッグ・イーガン「ディアスポラ」

ちょっと何言ってるか分からないという小説はいろいろあるけれど、グレッグ・イーガンの代表作とも言えるこの「ディアスポラ」もなかなか。といっても文学的な表現が意味不明というのではなく、文章は明解だが、膨大な物理学的、宇宙論的考察に自分のような文系人間は全くついていけない。ハードSFの極北。

肉体を捨てて自らをソフトウェア化し、ポリスと呼ばれるネットワーク上で生きる人々が人類の主流を成す世界で、地上には一握りの肉体人が遺伝子的改変を経て残っている。この設定だけなら古典的だが、イーガンの想像力はここから遥か遠くへと旅をする。
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夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語

カズオ・イシグロ「夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」

カズオ・イシグロの短編集。音楽をめぐる五つの物語。

「わたしを離さないで」などを読むと長編の作家という気がするし、実際に発表されている作品もほとんどが長編だが、この作品集を読むと、その魅力は作の長短には関係ないということが分かる。珠玉の一冊。
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花のさかりは地下道で

色川武大「花のさかりは地下道で」

文章に触れ、この人のようなまなざしを持ちたいと感じる人が何人かいる。

ここ数年、色川武大の作品に強く惹かれる。雀聖・阿佐田哲也としての顔が有名だが、本名の色川で発表した作品群には、人生や社会に対する諦観が冷たさではなく、どこか温かなまなざしで綴られている。

「花のさかりは地下道で」は幼年期や戦後まもない頃の思い出を中心とした12本の短編集。表題作には、地下道で寝起きしていた頃に知り合った「アッケラ」という娼婦のことが書かれている。
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魂でもいいから、そばにいて ―3・11後の霊体験を聞く

奥野修司「魂でもいいから、そばにいて―3・11後の霊体験を聞く」

「霊体験」と聞くとオカルトか特別な現象のようだが、ここに記録されているのは、人が大切な誰かを失った時にそれをどう受け入れて生きていくかという、紛れもない現実だ。
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贋作・桜の森の満開の下

野田秀樹「贋作・桜の森の満開の下」

「夢の遊眠社」時代の代表作の一つ。再演を重ね、今年8月には「野田版・桜の森の満開の下」として歌舞伎化もされた。

初演は1989年。贋作(がんさく)ではなく「にせさく」と読む。ただの模倣やパロディーではなく、そこからさらにもう一歩ずれた作品であることの表明だろう。坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を下敷きとした作品だが、野田秀樹らしい言葉遊びとスピード感溢れる展開で、要約は難しい。
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断片的なものの社会学

岸政彦「断片的なものの社会学」

読書の喜びは、知らないことを知ることと、それ以上に、自分が感じていること――悲しみや苦しみも含めて――を他の誰かも感じていると知ることの救いの中にある。同じ考えでなくてもいい。自分以外の人も、自分と同じようにいろいろなことを感じ、考えている。それに気付くことが読書の最大の価値だと思う。

著者はライフヒストリーの聞き取りを重ねてきた社会学者。といってもここに書かれているのは、分析や仮説ではない。路上から水商売まで、さまざまな人生の断片との出会いの中で、著者自身が戸惑い、考えたことが柔らかな文体で綴られている。
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