昭和天皇独白録

「昭和天皇独白録」

今さら専門外の身で語ることが憚られるような有名な史料だが、昭和天皇自身の戦争史観や人物評が伺えて大変面白い。この記録からは、あの時代において内外の情勢をしっかり把握しようという意思を持つ理性的な君主という印象を受ける。終戦後の聞き書きということもあって、正確な記録というよりは、開戦やポツダム宣言の受け入れなどを自分なりにどう納得しているかが分かって興味深い。ただこの独白録自体が政治的意図を持っていた可能性もあり、正確な評価は難しい。

炎の人

三好十郎「炎の人」

炎の人、ゴッホ。その評伝劇というより、むしろ讃歌。ストレートな言葉の数々が美しい。ゴッホと三好十郎自身の姿がだぶるが、さらにこの戯曲中のゴッホには、人類のかけがえのない滑稽さのようなものが重なって見える。貧しい中でも、先が見えなくても、必死で何かを生み出そうとする人間の営みに対する力強い讃歌といえる作品。

バレエ入門

三浦雅士「バレエ入門」

バレエ入門といっても、技術的な話ではなく、その歴史と思想についての本。イタリアで生まれ、フランスで育ち、ロシアで成人したというバレエの歴史から、ピナ・バウシュや勅使川原三郎といった現代のダンサーまで。舞踊は、文字や絵、楽譜として作品が残らないため語られることが少ないが、コスモロジーを表現しようとする最も根源的な人の営みと言える。バレエを通じて、ロマネスク、ゴシック、バロック、ロココといった時代の、音楽や建築、絵画、文学など西洋芸術史全般の理解が深まる一冊。

楽園のカンヴァス

原田マハ「楽園のカンヴァス」

アンリ・ルソーの絵画の真贋鑑定を巡る美術ミステリー。同時にルソーの評伝でもあり、二十世紀初頭の美術界を描いた人間ドラマでもあり、ルソーと現代のキュレーターの二重のラブストーリーでもある。大胆な虚構の痛快さと、現実に通じる知的興奮を兼ね備えたエンタメ作品。期待以上の面白さ。

頭巾かぶって五十年 ―文楽に生きて

吉田簑助「頭巾かぶって五十年 ―文楽に生きて」

吉田簑助の自伝と芸談。あらゆる芸能の中でも特に厳しい世界の、最も苦しい時代を生き抜いて来た人だが、そこからこぼれる言葉は素朴な温かみにあふれている。幼い頃から人形浄瑠璃の世界に遊び、芸のこと以外は何も知らない、来世も人形遣いになるという淡々としながらも重みのある言葉。決して苦労を声高に語りはしない、その姿勢は、半世紀を斯道に捧げてもなお上を見続けているからだろう。優れた人形遣いだけが表現できる、生身の人間には無い透明な情、それがどこから来るのか分かった気がする。土門拳や入江泰吉が撮った幼少期の写真が載っていて、それだけでも感動。

演劇のことば

平田オリザ「演劇のことば」

築地小劇場以降の演劇史を振り返りつつ、なぜ演劇と日常の言葉遣いが隔絶してしまったのかを考察する。

日本では歌舞伎や人形浄瑠璃の興行が発達しており、音楽や美術のように西洋芸術を直接移入せず、既存の演劇を改良しようとすることで近代化が始まった。それがかえって演技の近代化の遅れに繋がり、やっと岸田國士などが登場し始めた時には政治が芸術を取り込み始めていた。演劇はイデオロギーの言葉を語らざるを得ず、成熟できないまま戦後に至る。結果的に、演技とは、日常離れした言葉をいかに役者の身体にのせるかという特殊な技術となっていった。

近代演劇史に関する手頃な本があまりない中、分かりやすい一冊。

文楽の研究

三宅周太郎「文楽の研究」

昭和初期から終戦直後にかけて書かれた評論。明治以降、火災や戦災、人気の波で何度も危機に見舞われた文楽界の雰囲気が現在形で伝わってきて興味深い。御霊文楽座の火災などがどれほど大きな事件だったのか分かる。

芸の道の中でも文楽は特に厳しい。10年、20年どころではない果てしない下積みと稽古の日々。大序の大夫や人形遣いの困窮を綴った章は読み物としても心に残る。

著者は文楽の未来を後継者不足や技量の低下でかなり悲観しているが、それでも現代まで文楽はしぶとく生き延びてきた。この本で入門したての若手として名前が上がっている人々が、半世紀以上が経った今、人間国宝となっているのが感慨深い。人から人へ受け継がれてきた芸の貴重さ、かけがえのなさが胸を打つ。

浄瑠璃素人講釈

杉山其日庵「浄瑠璃素人講釈」

国家主義者で、明治から昭和初期にかけて政界のフィクサーとして知られた杉山茂丸の著書。文楽の愛好家で自身も義太夫節を習っていた杉山が名人から受けた教えを細かく記したもので、上巻は「傾城冥途飛脚」や「仮名手本忠臣蔵」、下巻は「妹背山婦女庭訓」「伽羅先代萩」など。

講釈部分ははっきり言って素人には全く理解できないが、合間に綴られた名人たちとの思い出から当時の雰囲気が伝わってきてかなり面白い。昭和の伝説的名人、豊竹山城少掾が若手として出てくるだけで溜息が出る。

金でも、名誉でも、生活のためでもなく、ただただ芸を磨くためだけに一生を捧げた当時の大夫たちの姿を通じて、現代に至って芸の世界が何を失ったのか考えさせられる。杉山自身も素人とは言えかなりのレベルだったらしく、芸に対してはかなり辛口。素人の馬鹿天狗だとか、臭くもない屁を放ったと一緒とか、いちいち表現が面白い。

杉山が繰り返し語っているのが、その曲を初演ないし確立させた大夫の「風」を身につけなくてはいけないということ。それぞれの曲を語ってきた大夫の名前を挙げ、西風か東風か、さらにどの大夫の様式に従って語ればいいのかを考察している。先人が歩いてきた道をしっかりと辿るからこそ芸と呼べるという言葉は、義太夫にとどまらない芸術論といえる。

豊竹山城少掾らその後の名人の誕生を支えた偉大な一冊だが、文章は頑固親父の蘊蓄語りといった感じでかなりユーモラス。往時の斯界の雰囲気が伝わってきて、読み物としてもかなり面白い。

坊っちゃん

夏目漱石「坊っちゃん」

ユーモアに満ちていて、どこか切ない。

近世以前の古典作品にしろ、漱石にしろ、改めて読むと自然なユーモアに満ちていて驚かされる。日本文学はおおらかで豊かな土壌に育っていたのに、いつの間にか痩せた土地ばかり耕しているのではないか。

米朝ばなし

桂米朝「米朝ばなし」

落語に縁のある上方の土地を歩く。地図に道頓堀五座が書かれているなど、昔の面影がまだぎりぎり残っていた時代の文章で、二重に興味深い。

文中で現代として描かれている光景も既に過ぎ去った過去となっている。土地や時代背景を踏まえて落語に触れると、気の利いたサゲや言葉遊びの豊穣さに驚かされる。

一方で、それらの面白さが現代ではほとんど通じないだろうことが寂しくもある。「浅草と深草なら少々の違い」くらいならまだしも、「天神さんは紙幣がきらい」「夜のこぶは見逃しがならん」などぱっと理解できる人がどのくらいいるのだろう。