黙阿弥

河竹登志夫「黙阿弥」

河竹黙阿弥の評伝だが、天覧劇を巡る関係者の思惑など、江戸~明治の大変動期を描いた読み物としても無類の面白さ。

時代の転機は歴史上数あれど、これほど短期に、作為的に文化の変革が試みられたことは少ない。義太夫や花道は陋習なのか。歌舞伎は荒唐無稽なのか。演劇改良運動など、歌舞伎のあり方をも一変させようとする欧化の嵐の中で、江戸を代表する作者は嵐を黙してやり過ごし、引退を元の木阿弥として死ぬ直前まで書き続けた。
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枯木灘

中上健次「枯木灘」

再読。中上健次の他の作品はよく読み返してきたが、代表作とも言えるこの作品は高校のころ以来かも。当時、なぜ自分がこの作品に強く惹かれたのか、そして今読んでもなぜ心が揺さぶられるのか分からない。文章は、冗長で、くどい。ただ、そこに胸が詰まるほどの切実さがある。

この小説に物語は書かれていない。書かれているのは、登場人物の行動とさらに思考も含めて、全てが情景描写にすぎないと言える。ただ、その背後に、豊穣で、読み手を痛みとともにその中に引きずり込む物語が存在している。

フラニーとズーイ

サリンジャー「フラニーとズーイ」

村上春樹による新訳。

とにかく読んでいて胸が痛くなる。ズーイの言葉とフラニーのいらだちは、サリンジャー自身の叫びのようだ。信仰を巡る会話が延々と続き、当時はこれがそのままスピリチュアルな主題として受け止められたのだろうが、今読むと、それは訳者の村上春樹が指摘しているようにメタファーとして感じられる。かえって多くの人の心に迫るのでは。
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ナツコ 沖縄密貿易の女王

奥野修司「ナツコ 沖縄密貿易の女王」

終戦直後の沖縄に現れた数年間の大密貿易時代に、太陽のように存在した夏子。

八重山は戦前、戦中を通じて台湾経済圏に属し、終戦後は米軍支配下で放置されたことで、「黄金の海」に浮かんだ密貿易の中心となった。日本の辺境となった現在からは想像できないほどの繁栄の時代。アメリカ世でもヤマト世でもない、ウチナー世を象徴しながら、資料に残らなかった38年の生涯。
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山岳気象大全

猪熊隆之「山岳気象大全」

無茶苦茶ためになる一冊。山岳地帯でどう天気が変化していくのか、地形による影響も含めて解説していてとても分かりやすい。

山の天気は天気予報だけでは頼りないと思いつつ、これまで漫然と地上天気図を眺めるだけだったけど、高層天気図や地形、実際の雲の様子を考慮に入れた天気の見方が分かり、目からうろこ。過去の遭難事故の多くを前後の天気図と比較して検討しているのも勉強になる。2年前の出版だけど、もっと早く読んでいれば。

あの日、僕は旅に出た

蔵前仁一「あの日、僕は旅に出た」

初めてのインド、仕事を捨てての長旅、「遊星通信」の発行、「旅行人」の出版、休刊……蔵前仁一の30年。

「深夜特急」の沢木耕太郎や「印度放浪」の藤原新也に憧れて旅に出た人は多いだろうが、旅に精神性を求めない普通の個人旅行者のスタイルを定着させたのはこの人だろう。旅行記にありがちな、自分探しのナイーブさも、インドかぶれのような説経臭さもそこには無い。
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わが盲想

モハメド・オマル・アブディン「わが盲想」

むちゃくちゃ面白い。盲目のスーダン人留学生(といっても、歳もセンスも既におっさん)が、19歳で日本に来てからを綴ったエッセイ。寿司と歌謡曲が大好き、野球はカープ(後で弱いことに気づいてちょっと後悔)。日本の文化にどっぷりと浸かりつつ、客観性も失わない絶妙のセンス。全盲で漢字を使いこなすことだけでも凄いのに、おやじギャグに自虐、ノリツッコミを交えた文章。他言語でこれほどのユーモアを身につけられるとは。なんだかいろいろな希望を感じられる一冊。

なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか ―PKO司令官の手記

ロメオ・ダレール「なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか ―PKO司令官の手記」

原題は「Shake Hands with the Devil」。この本をもとにした同名ドキュメンタリーを見たことがあるが、まさか邦訳されるとは。

94年、国民の1割に当たる約80万人がたった100日の間に虐殺されたルワンダ。悲劇の記録は邦訳も含めて多く出ているが、背景を丁寧に分析した本は少ない。これは、当時、目の前で始まった虐殺を傍観するしかなかった国連平和維持軍の司令官による手記。徐々に緊張感が高まる中、国連と国際社会がいかにルワンダを無視したのかの貴重な証言となっている。

「私たちは同じ人間なのだろうか? あるいは人間としての価値には違いがあるのだろうか?」
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カンガルー・ノート

安部公房「カンガルー・ノート」

かいわれ大根が脛に生えてきた男の地獄巡り。脈絡の無い、物語の飛翔の仕方が夢のよう。ただ意味不明なだけでなく、ちゃんと夢の論理のようにストーリーとスピード感があるのが凡百の前衛小説とは決定的に違う。

高校生のころに読んだ時にはなんとなく面白いという印象しか残らなかったが、今回はあまりに濃厚な死の雰囲気に胸が詰まった。病床の安部公房の夢が駆け巡った“枯野”なのだろう。
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方舟さくら丸

安部公房「方舟さくら丸」

久しぶりに再読。

採石場跡に築いた巨大な地下シェルターで引きこもりのように暮らし、その“方舟”で滅亡後の世界を生き延びる仲間を探す男。わずかに湿り気のあるような、不快さを帯びた文章。人間の残忍さ、薄情さ、不安定さ、論理的であることの醜悪さ、現世の気持ち悪さを偽悪的にならずに書き得た希有な作家だったと改めて感じる。
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