青春の蹉跌

石川達三「青春の蹉跌」

青年期の思い上がりを描いた(爽やかさの全く無い)青春小説。登場人物がとにかくエゴイストで、読んでいて不快になること間違いなし。特に主人公は強い上昇志向とともに、自分は社会とうまく付き合うことができる、自らの運命を乗りこなせるという思い上がりを抱いていて、それが躓きを招く。自分はもっと謙虚だと思いつつ、気づかない場面で自分も自分の判断力を過信しているかもしれないと身につまされる。そしてまた、この主人公の自分が正しいと思い上がる徹底した独善性は、今の社会に通じる気持ち悪さがある。

怪しい来客簿

色川武大「怪しい来客簿」

戦前から戦後間もない時期の、社会の片隅のつれづれ。エッセイのような筆致で書かれた連作短編。

これは諦観なのか、寛容なのか。著者のまなざしは冷め切っていると同時に、とても優しい。不器用な自分に限りない劣等感を抱えつつ、それを観察者の冷めた目で見てしまう。屈折した人間だけが持てる温度。

医師の過失に「ミスだとしたら、私はこれまで他人のミスに対して寛大でなかったことは一度もなかった。その基本方針をまげるわけにはいかない」「自分であれ他人であれ、一度ミスをおかしたら、助けてくれるものは何もないのだという現実に誰でも直面してしまう。だから寛大にならざるを得ない」。

ユーモアとともに、著者の人を伝える作品集。

クワイエットルームにようこそ

松尾スズキ「クワイエットルームにようこそ」

オーバードースで搬送された精神病院での二週間を描く。テーマは古典的だけど、センスは現代的で、痛快。面白くてあっという間に読めてしまったけど、話や描写の妙というよりは登場人物の面白さという感じで、小説よりも演劇、映像向きという印象(実際に映画化もされている)。

黒い雨

井伏鱒二「黒い雨」

大部分が日記体で、小説として奇をてらったところは一切無く、だからこそ読み物としては忍耐がいる(原典となる日記があるので、一般的な小説とはそもそも成り立ちが違うけど)。文章は、明るくも、暗くもない。人物描写もフラットで、(表面的には)何の思想も無い。そこに地獄が描かれているのに物語の展開は劇的とはほど遠く、単調ですらある。だからこそ、原爆の惨禍は地獄を見せて終わったのではなく、地獄の中でも日常は続いていくということを強く感じさせる。

開幕ベルは華やかに

有吉佐和子「開幕ベルは華やかに」

「一の糸」や「紀ノ川」といった作品の一方で、こうしたミステリー風の作品も書いてしまう有吉佐和子の多才さに驚かされる。といってもミステリー要素はおまけで、あくまで商業演劇の舞台裏を描いた人間ドラマ。東竹、松宝、中村勘十郎、八重垣光子と、モデルがはっきりしているのも面白い。大御所ふたり、勘十郎と光子は舞台裏でバチバチやりあいながら、芸の上ではお互いを信頼している。その描写が緊張感あふれ、胸を打つ。有吉佐和子は芯のある人を描かせると比類ない。演劇ファンにお勧めの一冊。

スローターハウス5

カート・ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」

ドレスデン空襲を中心に据えながら、物語はずっとその周囲を飛び回る。

米国兵のビリー・ピルグリムは、時間を超えて人生の断片を行き来しながら生涯を送る。欧州戦線から、戦後の穏やかな日々、時間という概念を超越した宇宙人が住むトラルファマドール星まで、場面は脈絡無く飛んでいく。
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イトウの恋

中島京子「イトウの恋」

明治の日本を旅し「日本奥地紀行」を記したイザベラ・バード。その通訳、伊藤亀吉(実在の人物は鶴吉)の恋という、よくまあそんなマニアックな所に目をつけてフィクションの題材にしようと思ったものだというのが第一印象。名著「日本奥地紀行」そのものとは比ぶべくもないけど、予想以上に面白かった。伊藤が晩年に記した手記が見つかったという設定で、明治と現代の男女の物語が巧みに進められていく。一回り以上年の離れた異国人にひかれていく少年の焦燥感は、知識への渇望と重なって、切なくも瑞々しい。

ナニカアル

桐野夏生「ナニカアル」

「放浪記」で人気作家となり、戦時中は従軍作家として戦意高揚に協力した林芙美子をモデルとした小説。評伝的なものを期待したら、むしろシンプルな恋愛小説、そして恋愛小説としてはちょっと退屈。戦時下の抑圧的な空気や、新聞社や作家が軍部に取り込まれていく様が丁寧に描かれていて興味深いが、林自身の作家としての苦悩や、人物の掘り下げはあまり無い。林はストレートに“女”として描かれていて、この辺りは井上ひさしによる評伝劇と対照的。終盤、恋人から作家としての仕事を否定されたあたりで一気に面白くなる。

伊豆の踊子

川端康成「伊豆の踊子」

拍子抜けするほど短い中に、艶めかしさと爽やかさが混じったような空気が漂う。青年期の一瞬を見事に捉えるとともに、無垢な少女の描写には川端らしい変態っぽさも漂っていて、短編なのに底知れない感じ。