東北で生まれ、東京五輪の年に上京、夫と死に別れ、子供とも疎遠となり、一人老いていく。74歳の「桃子さん」のとりとめのない思考を綴った小説だが、独特の文体による語りの力が、年齢や性別を超えて読者を戦後の日本社会を生きてきた一人の女性の境地に誘う。
“おらおらでひとりいぐも” の続きを読む
あふりこ
川瀬慈編著「あふりこ フィクションの重奏/遍在するアフリカ」
人類学者5人の共著だが、研究報告ではなく、フィクション。
収録作は、川瀬慈「歌に震えて」「ハラールの残響」、村津蘭「太陽を喰う/夜を喰う」、ふくだぺろ「あふりか!わんだふる!」、矢野原佑史「バッファロー・ソルジャー・ラプソディー」、青木敬「クレチェウの故郷」の6編。エチオピア北部で歌を生業とする人々「ラワジ」や、西アフリカの妖術師など題材はさまざま。いずれも実験的な構成、内容で、小説、随想、散文詩などの境界を越えて、読み手を多様なアフリカの姿に誘う。
“あふりこ” の続きを読む
かか
背高泡立草
第162回(2019年下半期)芥川賞受賞作。長崎の島を舞台とした家族の物語。納屋の草刈りをするために帰省した家族のとりとめのない会話に、過去の光景が挿まれる。
“背高泡立草” の続きを読む
国家を食べる
名著「カラシニコフ」などで知られ、ザ・外信記者という経歴・実績を持つ著者の回顧風ノンフィクション。イラク、パレスチナ、ソマリア、エチオピアなど、食にまつわる思い出を軸に、それぞれの国家の問題とそこに生きる人々の息遣いをつづる。
“国家を食べる” の続きを読む
薄情
舞台は群馬。地方都市の郊外。タイトルに「薄情」とあるのは、主に語り手の宇田川静生の感情の起伏の無さ、人間関係の粘りの無さを表しているが、物語が展開する農村と市街地の境界の、景色の密度、人間の密度の薄さもその言葉にどこか重なる。
“薄情” の続きを読む
草の上の朝食
デビュー作「プレーンソング」の続編。続編と言っても、前作に物語がなかったのだから、そこに付け加えるべき新たな展開もない。成り行きで同棲している男3人、女1人。近所の野良猫に餌をやったり、競馬場に行ったり、マイペースな4人のとりとめのない日常が続く。
“草の上の朝食” の続きを読む
深夜航路 午前0時からはじまる船旅
「深夜航路」というタイトルだけで旅情をかき立てられる。
夜行フェリーほど、旅をしている、という感覚を味わわせてくれる乗り物はない。フェリーに限らず、列車でもバスでも夜行には不思議な魅力がある。景色が見えないのになぜ旅の感慨がわくのか。そして、昼間の移動より記憶に残っていることが多いのはなぜだろう。
景色が見えないからこそ、なのかもしれない。著者も書いているように、夜の旅は内省的になる。内省する時間は自由の感覚とも結びついている。
“深夜航路 午前0時からはじまる船旅” の続きを読む
バンコクドリーム 「Gダイアリー」編集部青春記
「日本の恥!」と駐妻たちに目の敵にされた伝説の雑誌、という帯の文句が目を引く。1999年にバンコクで創刊された日本語月刊誌「Gダイアリー」は、ジェントルマン(紳士)の日記という名前の通りというか、裏腹にというか、夜遊びネタの豊富さで知られたが、一方で下川裕治や高野秀行といった作家の文章や硬派なルポも載る総合誌だった(らしい)。
“バンコクドリーム 「Gダイアリー」編集部青春記” の続きを読む
未明の闘争
川端康成の「雪国」の冒頭を、頭の固い(センスのない)国語教師が添削すると、「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」と、「そこは」を補ってしまうというような話をどこかで聞いたか、読んだことがある。表現において「正しい日本語」というのはなく、小説や詩歌は言葉の地平を広げる。
それにしても、この保坂和志の小説はすごい。
“明治通りを雑司ケ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。”
というのが冒頭の文章だが、「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」は明らかに助詞の使い方がおかしい。そしてこれよりもっとアクロバットな文章が頻出する。
“未明の闘争” の続きを読む